動物園日和

子どもとの日々、本や映画のことなど。

読み聞かせの澁澤龍彦

2000年代に大学生だった頃、よくくるりを聴いていた。

海外の小説が好きで、カズオイシグロが好きだった。

 

時は流れ、今、再びくるり(しかも昔の作品)を聴いている。

カズオイシグロも相変わらず好きだ。

 

20歳を過ぎた後に好きになったものは、今でも割と好きなことに気がつく。

 

中学生や小学校のころ好きだったものはそうはいかない。今ではもう全く聴かないアーティストも多いし、中学生のころすごくはまった小説の殆ども、もう開くことはないだろう。

 

30代になってから新しく好きになったものは20代の頃ほどはない。

ラッキーキリマンジャロは好きだけど。

どんどん保守的になっているのか、感性が鈍ってきたのか、そもそも新しい作品に触れる時間や機会が減っているのかもしれない。

 

 

その一方ですごく大量に触れるようになったのが子供番組や絵本だ。子ども文化の流入が止まらない。ピタゴラスイッチが好きになりすぎて甲府で開催されたデザインあ展に行ってしまうほどに。こどものとものバッグナンバーがどうしても欲しくて実家も動員して探してしまうほどに。

 

悔しいので子どもたちに大人文化の流入をはかっている。ラーメンズのコントは受けていたが、大人向けのネタも多いので作品のセレクトが大変だ。ハンバートハンバートは子どもたちもお気に召したようだ。「からたちの花」とか、どう考えても恐ろしい歌を口ずさんでてちょっと心配だけど。

 

思えば私も昔、同居していた祖父から大人文化の薫陶を受けて育った。

祖父は私に澁澤龍彦の怪奇譚やロバート・リプレーの世界奇談集を読んでくれた。面白かったが当時3~5歳の幼児に読むのに適していたかは甚だ疑問だ。敬意をこめて言うけれど、澁澤龍彦なんか思春期に親から隠れてこっそり読むのが似合っている。おじいちゃんのひざにのって読んでもらった思い出の本ベスト100がもしあるとして、ランキングに入っていないことは確かだ。おかげで未だに「奇妙な孤島の物語:私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島」といった風変わりでデティールのある実話が大好きだ。

 

そう考えると、幼いころ読んだ本や聴いた曲、観た映画なんかは、好みが変わる中にあっても、その人の原体験として体の核に残っているのかもしれない。

 

 

祖父は私は小学生にあがってすぐ亡くなった。けれど彼の好みは私にしっかり受け継がれている。彼のひ孫にあたる私の子どもたちには、澁澤は思春期あたりに各自で出会ってもらいたいものだ。

読書記録 給食アンサンブル

「給食アンサンブル」はある中学校の給食をめぐる物語。

短編集として1話1話独立しても読めるけれど、それぞれが緩やかにつながって最後の話に至る構成。比較的穏やかな中学生ばかりであまり不穏な展開もなく、全体としてはほのぼのとしている。「ミルメーク」「ABCスープ」「黒糖パン」のように誰しもがある種のノスタルジーを感じる給食ならではのモチーフに心惹かれてしまう。

 

子どものころ、好きだった給食のメニューは今でもよく覚えている。

いつしか給食を食べる学校生活が終わり、ふと気がつくとあんなに好きだったのに、今ではまったく食べていないものがいくつもある。「かみかみこんぶ」「冷凍みかん」「麦芽ゼリー」「パインぼう」そして「ミルメーク」。

 

私にとってミルメークは、小学校の時だけ味わえた尊い存在で、いわば初恋の彼みたいなものだ。ミロとはちょっと違う。ミロとは、小学校を卒業した後もつかず離れずの関係だ。スーパーやコンビニでもしょっちゅう会う。近所に住んで大人になってからも交流が続き、むしろ昔よりうちら仲いいよねー、それがミロと私の関係だ。

だから私はミルメークに会わなくても満足だった。記憶の中のミルメークにいつまでも光り輝いていて欲しかったのだ。落ちぶれたミルメークも調子に乗ったミルメークも受け入れられない。中学生のころ好きだった、素朴なクラスメイト男子(美術部)が、同窓会で会ったらIT系のベンチャーで髪の毛立ててて柄物のシャツに柄物のネクタイでやたらSNS向けの写真を撮っているところを想像してほしい。そんなの嫌だ。彼は相変わらず素朴で、無印良品のシャツをパンツにインしていて、ちょっといいなって思うけれど長いこと付き合った彼女としっかり家庭を築いていて、なんだー残念、と思う感じであってほしいのだ。・・・何の話だ。そう、ミルメークの話だった。

 

最近ミルメークに会った。

 

 

ダイソーで。

 

彼は相変わらず素朴な佇まいだった。嬉しかった。あの牛もいる。年月を経ても牛はスタイリッシュにならず、佐藤可士和がロゴをデザインしなおした気配もない。良かった、本当に良かった。

ねえ、ミルメーク。ここにいたんだね。私、あなたのこと大好きだったんだよ。知らなかったでしょ。ずっと、ずっと好きだった。

男子とおかわりじゃんけんしちゃうくらいに。その男子のことちょっと好きだったのにじゃんけんで負かして「うおおっしゃあああ、ミルメークゲットーーーっ!」って叫んじゃうくらいに。

 

 

と数秒間脳内でミルメークに語り掛けた後、子どもに聞いてみる。

ミルメーク売ってるよ。買う?」

すると「ミルメークって何?」というクールな回答が。

そう・・・ミルメーク知らないんんだ・・。

 

かくして我々はレジに向かい、無事にミルメークを入手したのでした。

今や108円出せばミルメーク8回分飲めるんですね。こんなにあっさり手に入るなんてそれはそれでちょっと複雑な気分になる煮え切らない自分なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

読書記録 人間タワー

朝比奈あすか「人間タワ―」を読んだ。 

大規模な組体操を伝統とするある小学校の人間タワーを巡り、様々な人物の視点が交差していく。

 

「君たちは今が世界」がとても良くて、同じ作者の、同じように小学校を舞台とした作品を選んで読んだ。

 

子育てをしていると、もう一度子ども時代が戻ってきたような不思議な懐かしさを感じることがある。朝比奈さんの作品も、読んでいると、小学生だったころの自分が捉えた世界がふいに生々しく蘇る。運動会の音の割れた放送、砂埃で口の中までじゃりじゃりしたこと、体育座りしたときの地上数十センチの高さから見た風景。今では小さな一つ一つのことが世界の終わりみたいに苦しかったし、お腹の皮がよじれるほど可笑しかった。希望も絶望も、今の何倍も大きかった。生まれたての犬の足に柔らかな桃色の肉球があるように、小学生たちは無防備で剥き出しの感受性を持って様々な体験を積んでいくのだから。

 

今年、子どもたちの通う学校の運動会はコロナの影響で大玉転がしも応援合戦も玉入れも綱引きもない。組体操も騎馬戦も、運動会の花であったろう競技は一様に中止になってしまった。子どもたちが小学生のうちに、友達と肩を組んだり手を取り合う機会は訪れるのだろうか。

 

様々なニューノーマルの海を泳ぐ中で、運動会のあれこれは絶滅危惧種のように稀少になってしまった。でもきっと、ソーシャルディスタンスがしっかりととられたあの等間隔の体操服たちはかつての私たちと全く変わらない喜びや悲しみやあれこれの日々を送っているのだろう。

 

校庭から、風に乗ってかすかな音楽が流れてくる。何の曲かと耳を澄ませているうちにチャイムが鳴り、体操服たちは校舎へと吸い込まれていった。

読書記録 わたしのちいさないきものえん

 下の子が小学校に入学しました。余裕もできたので日々の備忘録に書いていきたいと思います。

 

急な来客がある。一通り対応して笑顔で送り出し、ふと床を見るとしなびた紫キャベツが転がっている。抜群の存在感だ。どうして気づかなかったのか。

 

来た人は真っ先に気がついたことだろう。一瞬ぎょっとして、でも顔には出さない。この家の住人に「ねえ何か落ちているよ」ということもない。だってそこまで仲良くないし。そもそも紫キャベツが床に落ちているような家に住んでいる住人と仲良くしたいとは思えない。きっとそんなことを考えたのではないか。私は緩慢な動作で床からキャベツを拾う。

 

庭にも紫キャベツがある。ままごとのお皿に突っ込まれ、紫の汁を出している。

理科の水溶液の実験に使った後、余ったキャベツで子どもたちが遊んだのだ。

「薬」を作ったらしい。下の子は以前府中郷土の森の民家にある臼で葉っぱをすりつぶして以来、薬作りにはまっているのだ。漢方薬の薬研のようなイメージなのだろう。あまりにもずっと葉っぱをすりつぶしていたので、ほっておいて他の部分を見て戻ってくると、薬作りはいつの間にか娘と知らないおじさんの共同作業によってなされていた。知らないおじさんは無言で葉っぱをとってきて、娘の臼に投げ入れる。娘も無言で擦り続ける。見ていると娘が葉っぱを取りに行っている間にはおじさんが交代で葉っぱをすりつぶしている。二人は終始無言で真顔だった。何かに取り憑かれたかのように。

彼に向かって「遊んでいただいてありがとうございます」と言うのは何か違う気がした。二人は完全にイーブンにその作業に没頭していて、それを遊びと見なすことも、彼が彼女と遊んでくれていると解釈することもなんだか二人に失礼な気がしたからだ。

 

ちなみに玄関に紫キャベツを落としていたのはたぶん私だ。

先月かがくのともの「わたしのちいさないきものえん」という本を親子で読んで早速カタツムリを飼っている。カタツムリのケースは比較的涼しい玄関の靴箱の上に置いた。そのカタツムリの餌にしようと持ってきた紫キャベツの一部を落としてしまったらしい。

 

タツムリは食べたものの色がそのまま糞になるので、紫のウンチを期待しての紫キャベツだ。しかし実際にはカタツムリはグルメで、無農薬栽培のちょっと高級なレタスばかり食べていて紫キャベツは見向きもされなかった。

 

最近はそのカタツムリ(ナミマイマイ)の横にヒラタベッコウというさらに小さなカタツムリとダンゴムシのケースが加わった。地面は常に霧吹きで湿らされ、玄関全体がえもいわれぬカタツムリ臭だ。

 

もしかしたら。もしかしたら先ほどの来訪者は紫キャベツには気がつかなかったかもしれない。でもこの匂いはどうだろう。カタツムリの匂いが好きな人は全人口の何パーセントくらいなのか。そんなことを考えながらカタツムリのケースをあけ霧吹きを押す。良かった。今日はキュウリも食べたようだ。